お気持ち生存録

お気持ちのお気持ちを外在化

何者かになれましたか……?

 いつの間にやらでもなく、もうおじさんだ。今のところ特に大きな身体の不調はないが、自意識と戯れ合ってばかりじゃそろそろ笑えない。何になりたくて、何になれなかった?それすら正直分かってはいない。

 

 人間関係や趣味で挫折したことは無限にある。しかし、今思えば人生のレールで挫折したことはない気がする。今だってアーアー言いながらも働いている。にも関わらず慢性的にうつろな感じがする。まだ何者でもないし、何も成していないように感じる。

 

 ずーっと女の子にモテなかったから?或いはバンドも全然努力出来なかったから?何かを表現したいと思っているのに、思っているだけだから?

 

 歳を重ねて将来はどんどん狭まっていく。勿論いつだって未来は変えられる。しかし、昔と今ではここから歩ける距離が違う。行ける場所が変わってくる。「私にはこれがある」と誇れるもの、手に入れられるのか?

 

 それって、ないといけないのか?

 

 カメラを買った。憧れていた東京の街を撮るために仕事終わりに駅前でシャッターチャンスを粘った。蜷川実花とか奥山由之の写真集を買ったりもした。youtubeの動画を見て撮り方を勉強した。撮ったからには沢山の人に見てもらいたくてインスタのフォロワーを増やすためにいいね連打を日々のdutyにした。暫くしてdutyがしんどくなった。仕事終わりに頑張るモチベーションが途切れて、今はそこまで本気でやっていない。

 

 たしかに適度な距離の趣味は楽しい。カメラを持って結婚式に向かい、帰りの電車でレタッチする。自分も満足できたし主賓にも喜んでもらえた。誰かと出かけるときにフィルムカメラを持っていく。フィルムが一杯になったら適当に現像に出す。そうして返ってきた写真で思い出を振り返るのも楽しい。

 

 けど、カメラやってます!と誇示できるほどのスキルや知識はない。これが僕の一部なんです、これが僕の表現で考えて思い描いていることなんです。とはならない。

 

 叶うなら(写真に限らず)他の人にいいねと思われる表現をしてみたいし、他の人に褒めてもらいたい。でも、その為の継続的な努力が為されていない。

 

 自分の頭でのなかでグルグルしているモノ。それを表現したい気持ちがある。似たようなことを表現している作品を見つけてきた。だから僕の頭のこれも誰か共感してもらえそうな気がする。しかしいつもすぐに技術的な所で躓いてしまう。

 

 ブログでもそう。小説はプロットを書いても語彙力がない為に具体的描写や台詞が出てこない。短歌をほんの一瞬やった時も表現が捻り出せずに習慣化出来なかった。恥ずかしいかな、全然続いてない。

 

 昔、若気の至りでニコ動に映画もどきみたいなのを作ってupしたことがある。作りは酷く粗いしそこまで再生数は伸びなかった。けどコメントでは結構褒めてもらった。ボロボロだけど頭の中を動画という形にして誰かに見てもらった。それでいいねと言ってもらった。正直自分にとってはちょっとした財産だ。また作りたいと思ってはいるが、これも編集、素材集めなりが大変で出来ていない。

 

(一方、それなりに身についた趣味もあるにはある。コーヒーに熱心になった時期があり、家で美味しいコーヒーを淹れられるようになったし、美味しいコーヒー屋も知った。服はお金と時間と体力の問題なので嫌にならず継続できているし昔よりは見映えがよくなった。金は無限に吹っ飛んでいるが)

 

 何かを行う、上達しようとすれば当然何かしらの障害はあるだろう。当たり前だ。それを乗り越えなければその先はない。努力もせずに成果を得ようだなんて虫のいい話だ。何者にもなれなかったんじゃなくて、なろうとしなかっただけかもしれない。勿論仕事は大変だが、家に帰って好きでもない動画をyoutubeで眺めている白紙の時間は間違いなく存在する。

 

 自分を埋めてくれるんじゃないかと色んな趣味を始めた。強制力か見返りがないと継続した努力が出来ないために、大体のことをモノに出来なかった。コーヒーや写真など適度な距離で楽しめている趣味もある。けれど「これが僕なんです。こういうこと考えてます。貴方も同じ気持ちになることないですか?」って配れるチラシは未だにない。或いはチラシを配って褒めてもらった経験が少ない。

 

 何か話がそれてしまった。どうだろう。これから結婚できて子どもが産まれるとして、自分の時間が無くなるそれまでに何者かになれたりするのだろうか。ん〜〜難しい

高級鮨のカウンターでパパ活に肩を並べる為の資格

 

 レジ(後期研修医)になった。後期研修医になるとどうなるかというと年収が上がる。税も上がる。国に搾り取られる。で、年収が上がるとどうなるかというと高い飯を食いに行くようになる。大概は。

 

 焼肉、フレンチ、イタリアン、寿司、創作料理。勿論そんな何度も食いに行ける訳もないので時折も時折だが、高い飯を食いに行く。正直フレンチとイタリアンの違いも分からないが贅沢しに飯を食いに行く。

 

 白い皿の上にアートのように盛り付けられた食事。確かに美味しい。地元では食べたことないような味をしている。ペアリングのワインも宅飲みで紙コップに注がれるような渋いだけの液体じゃない。美味しいと納得できる舌触りをしている。

 

 しかし偶に思う。物の質も何も分かってないのに金を贅沢に使ってよいのか?勿論食べなきゃ分かるようにならないと言えばそうだし、お店の人が説明してくれる「〇〇県の✖️✖️で採られた希少な□□です」「△△地方の〜〜という歴史ある醸造所です」という情報を踏まえるとご飯はより美味しい。なんとなく価値は分かる。でもなんとなくだ。実際それがどれほどの値打ちがあるのか分からない。市場的にそこまで価値がない物をアコギな価格で頂いたとしても気づかないのだ。もしそうだとすれば相当に滑稽だ。

 

 また当然「自分が美味しいと思えればそれで良」くはある。過去行った少ないお店の中で記念日にクーポンを使って結構な大枚を叩いて行った店は人生で一番美味しかったし、ただそれだけで満足だった。圧倒的な体験だった。

 

 ただ「確かに美味しいなぁ」と思いながら、店の人の蘊蓄をうんうん言いながら聞いてる時に「何も分かってないのに結構な金を払ってちょっと馬鹿みたいだなあ」と思ってしまった。

 

 美味しい物は美味しいし、高級店に行くと特別な気分になれる。お金に余裕があればまた行きたい。でも食事のことなんて何も分からないのだから、どんな顔してカウンターに着くのが正解なんだろう。パパ活おじさんのでっぷりした腹と態度でも見習うべきなのか。

この歳で尚こんなこと書いてるなんて思いたくなかったなあ

 世界は皆が幸せになるようには出来ていない。世界には幸せの絶対量が足りない。なぜなら世の中は「本当は皆が幸せになるように構築されたゲーム」ではなく「先人の成した或いは成してしまったことの積み重ね」でしかないからだ。そもそも世界は「幸せ」を一度も担保していないのだ。それに気づくのが遅かった。気づいたからと言って楽になれるはずもないが。

 

 そもそも生まれたからと言って頑張りたい訳ではない。にも関わらず少なくともある程度は努力しないと生活できない、幸福を得るなんてもっての外だ。死は確かに今ある苦痛を丸ごと消してはくれるが、生物としての本能、倫理観等々によって我々は中々その橋を渡れない。大多数は生活の苦しみを誤魔化し誤魔化し日々を重ねていくことになる。街に並んだ広告を見るとまるで世界には快ばかりが存在するように見えるが、結局は一時の目眩しでしかなく我々は食って排泄して睡眠を取る生活という地面から逃れることはできない。

 

 世界の捉え方なんて心の持ち用一つだと言われればその通りだが、この時代にそんな健康な心を維持することは果たして可能だろうか。あらゆる画面から自分が手に入れられなかったもの、今後とも縁遠いものの存在を見せつけられる。置かれた場所で咲くしかないのだが結局我々に残された道は受容だけである。

 

 一番悲しいのはアラサーになってまでまだこんな風に考えていること。もう少し現実と自分の理想とで折り合いをつけられていると思っていた。こんな抽象的で何一つ具体性のワードのない文章を書いて、今まで何を見て生きてきたんだ……。

youtubeの方が映画より楽

 

家で映画が観れない。

 

勤務が終わって帰宅した後、映画1本観る時間的余裕はあるのに全然観る気になれない。あるいはアマプラで何が観れるかだけ眺めて終わる。あるいは5分程度で集中力がなくなって終わる。

 

前回も書いたように無理に観る必要はないと分かっているけど、ずっと大事にしたいような映画に出会えることもあると思うと映画を観ないままなのは勿体ない気がする。

 

しかし、映画との向き合い方についてブログで考えた前回の記事以降も全く観ていない。

 

かと言って家で全ての気力を失っている訳でもなく、ジムに行くために外出は出来たりする。

 

どうして映画が観れないかと再び考えたが、やっぱりyoutubeが原因な気がしてきた。映画は楽しむのに2時間必要だが、youtubeは10分、いや5分あればコンテンツの面白さを享受できる。働いてるのだから、家でまで集中力を使ったり考えたりしたくない。受動的にコンテンツを楽しみたい。それだけ考えれば映画なんて観なくてもいい。

 

小説や漫画と違って、映画は何もしなくても再生ボタン一つで進んでいくが、本当のことを言えば集中力を維持して能動的に「観にいかない」と楽しめない。観続けたその先に圧倒的な感情体験があるとしても、まずその集中力を捻出することができない。開始5分でその世界観に取り込まれたりしたなら別だが。

 

こう思うと今後の人生で仕事終わりに映画観ようとなる気がしない。映画館で観る量も減ってきている。

 

だけど、このままyoutuberの動画だけ観てるのと映画を少しでも摘んでいるのだと、この先の心の豊かさが変わってくる気がする。何故なら今、辛くて明日が来て欲しくないときには『スワロウテイル』を思い出すし、恋愛の感情と現実的な障壁がぶつかるときは『わたしはロランス』を思い出すから。これらの映画が心が萎れそうな時に立て直すような気持ちをくれる。そういう出会いがこれからもある気がするのだ。

 

取り敢えず1日30分だけ観るとかの工夫をしてみようと思う。

 

もうお家で映画観れないねぇ

 

家で映画を観れなくなった。

 

学生時代は所謂昔の名作を漁って観ていた。TSUTAYAに週に2回ぐらい通っていた。つまらない映画で後悔したこともあれば、一生抱えていたい映画に出会ってDVDをポチったこともある。『2001年宇宙の旅』は個人的には全くダメだった。昼寝するかと思った。

 

プライムビデオを開けなくなった。ネトフリとHuluは先月解約した。ウォーキングデッドはもう追えていない。ウォッチリストに大量の映画を貯めたまま僕のアカウントは消えた。面白そうと思ったけど観続けることが出来なかった。ついついYouTubeTwitterに逃げてしまった。

 

別に映画が嫌いになった訳ではない。気になる映画が上映されれば映画館に足を運ぶし、社会人時代になってからも素晴らしいなと思える作品にいくつも出会えた。

 

しかし、家で眺めるのはYouTubeTwitterだけ。あとInstagramロックマンのプレイ動画とかUndertaleの考察動画とか、昔浸かっていたコンテンツをひたすら反芻してアフター5を過ごしている。昔楽しんだコンテンツだから今見ても面白いし、新しいものを知らなくていいから心的な負担はない。ただし毒にも薬にもならない。生産性のない、その場の楽しさだけのコンテンツをひたすらに浪費している。

 

別にそれらが悪い訳じゃない。テレビのバラエティを観るのと同じで、もこう先生がマリカで発狂しているのを飯を片手に楽しんだっていい。だけど、家に帰ってきてずっとその場だけのコンテンツで心を誤魔化し続けるのは、あまりに先がないんじゃないか?と強迫的に思ってしまう。

 

かつてオタクだった何か。Twitterで一世代上の人たちが話していた、「歳を重ねた社会人オタクは、オタクコンテンツすら楽しむことが出来なくなり、ただの無気力なオタクの残骸に成り下がる」という言説。詳細な差はあるが無気力という点では大差ない状況が、とうとう自分にやってきたのかもしれない。

 

一方で趣味が増えて映画に割く気力がなくなった、という可能性はある。例えばファッションだったりコーヒーは社会人になって本格的に始めた趣味であり、YouTubeInstagramでそれらの情報を漁っているのは生産性のある行為かもしれない。

 

たしかにこれらの趣味は社会人になってから自分の世界を広げ人生を豊かにしてくれた(ファッションは同時にお金も奪ったが)。しかし、映画や小説など、昔没頭していた趣味から(今も興味はあるのに)遠ざかっていくのは寂しい。

 

文化人に憧れた。色んな映画を観て、それを消化して、上手く自分のなかの引き出しとして活用したかった。昔名作を漁っていた理由は、多分そこにある。勿論、先に書いたように、好きだと言える作品がその時期に沢山増えた。今の自分の価値観に影響している映画だってある。

 

しかし、動機自体はやっぱり不純なものがあった。「映画観るの大好きだからどんどん新しい作品を観たい」だけでTSUTAYAに通っていた訳ではなかった。

 

文化人とか、Twitterでバズっているような映画好きなんていうのは、映画好きが高じた結果なったものであり、初めからその立ち位置を目指すものではないのだ。そんなことは薄々気がついていたけれど。映画好きというキャラクターを自分に付加することに一生懸命だった。

 

「所謂映画好きになりたい」、それがモチベーションの根底にあったから、気力が少なくなった今では映画を漁ることが出来なくなってしまった。仮にある映画が自分に素晴らしい体験を与えてくれるかもしれなくても、最初の一歩が踏み出せない。なぜなら、映画を観ること自体の喜びを追い続けている訳ではないからだ。

 

映画に対してもっとイージーに向き合うなら、今のように「気になった作品が上映されたら映画館に行く」というスタンスで問題ないのかもしれない。未だに文化人というモノを目指すにしても、好きなものを楽しもうとする姿勢が一番近道なのだろう。

 

しかし、映画が素晴らしい体験を自分に与えてくれることを知りながら、気力のなさや面倒さだけでスルーしておくのは些か勿体ないような気がしてならない。映画は今まで自分の世界を豊かにしてくれた。積極的に向き合えばこれからも色んなものを見せてくれるだろう。だから、そんな映画を放っておいてこのまま歳を重ね、その先で何も持っていなかった、なんてことにはなりたくない。やや強迫じみた考えな気はするが。

 

どうするのが、映画と、自分の心と、折り合いをつけていくのによい道なのだろうか。今のところは不明瞭なままである。